ちょっとコラム「ゼロから考える」

結月平日コラム_edited-1
ちょっとコラム「ゼロから考える」
 
仕事でもなんでもそうだけど、「こういうもの」っていうある種のフォーマットがあって、それと同じようなことをするのが仕事であったり、思考パターンであったりすることは多い。
 
しきたりやルール、型、そうしたものが取り組む前にすでにあって、それを習得することが勉強であり、仕事であるとわたしたちは無意識のうちに考えているんじゃないかって思う。
 
でも、それって正しいのかな?
 
しきたりやルール、そして型といったものも、今では明文化されたり、決まりとして確立されたものであっても、それらも1万年前にあったものではなく、もともとはそんなものは存在しない「ゼロ」だったはず。
 
ゼロの中から、人間がいろんな行いをすることで、次第にしきたりやルール、型は形になってきた。
 
「こんなものがあったら、おもしろいよね」
 
っていうゼロからの発想が古くはウォークマンであったり、昨今ではスマートフォンであったりする。
 
要するに時代を作るものって、当たり前だけど「ゼロ」から生まれるもの、すでにあるものには見向きもしないスタンスからできているんですよね。
 
すでに「在る」ものを極めようと真似事をしたり、習得しようとしても、すでに在るものは珍しくないし、反復に過ぎない。
 
仕事の中で「ちゃんとやってよね」というふうにできないひとに向かって言うのは、「しきたり通りにちゃんとしてよね」という意味で、その仕事は創造ではなく、反復なんですよ。
 
決められたものをきれいに反復できることが「仕事ができる」ってことになっているようで、これはつまらないなって思う。
 
「前例にない」だとか、「異例だ」だとか、「常識的でない」だという批判の言葉は、つまり創造できないひとのもので、何もないゼロから生み出そうとするひとは、前例にないことこそすばらしく、異例だから素敵で、常識的でないからエッジが立ってると考える。
 
今まで見たことがないものが時代を作り、それが時代の姿となって、さらにそれが反復を繰り返す型になってしまうと、いずれそれもゼロから出てきたものに否定され、そうやって新陳代謝しながら発展するんです。
 
ですから、ゼロから始めないもの、ゼロから始めようとしないものはエネルギーがなく、すでに在るものを反復して上手になりましたなんていうのは、衰退はすれど、発展はないと思うんですよね。
 
在るものに求めず、「ゼロ」から始めませんか?
 

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