ちょっとコラム「動物が好き?」

結月平日コラム_edited-1
ちょっとコラム「動物が好き?」
 
わたしはどういうわけか動物が好きで、人間のことは好きだと言える自信はなくても、動物なら、と言える自信はあります。
 
しかし、一口に動物と言っても、蛇とか蛙とか、爬虫類、両生類系は嫌いとは言わないによ、一般的には「動物が好き」というと、猫とか犬とか、つまり日常生活で飼えるもののことを指します。
 
しかしながら、昨今、何でも手に入る時代なので、どこかのジャングルに生息するものすごい蛇やワニガメなんかも販売されていて、それをペットとして買っている爬虫類マニアなるひとたちもいます。彼らはきっとわたしは猫が可愛いと思うように、爬虫類も可愛いと思っていることでしょう。
 
ともかく、一般的な動物を取り上げることにして、つまり犬や猫、あとはウサギやハムスターといった動物たちを考えると、わたしは動物が好きで、猫を一番贔屓しているとはいえ、犬のことが嫌いではなく、犬がいればそれはそれでとても可愛がります。
 
その正反対に、動物が嫌い、苦手というひともいて、犬の毛が一本部屋に落ちているだけで鳥肌が立ったり、悲鳴を上げてしまうひともわたしは知っています。
 
その理由は特定しがたいのですが、極度の潔癖症か、アレルギー持ちで動物の毛に触れた途端に蕁麻疹が出て大変になるとかかもしれません。
 
実はわたしもアレルギーを持っていて、でもそれはもう落ち着いてしまっているから何ともないのですが、高校を卒業する頃までは喘息がとにかくひどくて、一週間に三度か四度は真夜中に救急病院へ行っていました。
 
だから、ハウスダストやホコリには大変敏感で、学校で修学旅行なんて行くと、みんな騒いで枕投げをしたりするのが恐ろしくて、なぜなら少しの埃でも救急病院へ行くほどの発作が出るのに、枕投げなど殺人的であったからです。
 
人間の性格というのは、そういうところから形成されるもので、わたしが大勢と旅行したり、合宿だとかそういうものが苦手なのは、喘息持ちだったからに他ならず、そのせいでひとと話すよりひとりでいるほうが心地いいという、どちらかと言えば「引きこもり傾向」な人間になってしまいました。
 
ところが、人生とはおもしろいもので、引きこもりの性格では生活ができないから、きっと神様がひとと話さないと仕事にならないような立場を与えてくださって、今があるのだと思います。
 
おかげさまで、根本的には引きこもりであって、ひとに呼ばれれば喜んで行くし、ひとに出会って、話すことで世界は広がることを自覚することができました。
 
さて、話は動物に戻ると、動物が好きなひとと嫌いなひとがいる。
 
わたしが動物が好きなのは理由はよくわからなくて、動物を見ると可愛いと思うし、可愛がりたくなるからです。
 
きっと、それには言語的な理由なんてなくて、言語以前の感情なのでしょう。
 
言葉にすると、動物が素直だからとか、そんなことかもしれないけれど、最近は見ないけれど、電車で誰かが赤子を抱いているのと見ると、赤の他人なのに赤ちゃんに向かって話かけたり、いないいないバァをしたりする老人がいます。
 
あれは、赤ちゃんを見るとたまらなく可愛くなって、言語以前に行動している例です。
 
ところがそういうのはお年を召したひとが多く、中年でも若い世代でもそういうひとは見かけることはありません。
 
一方で、電車の中でベビーカーが迷惑だという論争が起こったり、露骨にベビーカーを嫌ったり、赤ん坊が泣きはじめるとしかめっ面をするひとは珍しくありません。
 
つまり、わたしたちは赤ん坊というものに対して、言語以前の愛情を抱けなくて、おそらくは言語的にそれを捉えてしまっているのでしょう。
 
可愛くてどうしようもないという気持ちは言語以前のものです。しかし、赤ん坊は「ウザい」というのは言語です。
 
言語以前の愛情だと赤ん坊やもしくは小動物も優しく包み込めることができます。ところがこれを言語で捉える、すなわち言語で捉えるとはそれを客観視することだから、自分に包み込むことができず、対象として境界線ができてしまうのです。
 
電車の中のベビーカーはそのマナーはあるにせよ、赤ん坊というあどけないものに対してハッキリと境界線ができるものです。なぜなら、これから仕事に行くビジネスな雰囲気の中では、赤ん坊はあまりにも正反対なものだからです。
 
しかし、いくら正反対なものでも、愛があればそれを受け入れられるはずです。なのにベビーカーが毛嫌いされる傾向にあるのは、わたしたちに愛が枯渇していて、愛が湧き立つ環境にいないからなのでしょう。
 
それは非難されるものでないのは、みんな、それどころでないくらい苦しいからです。忙しいからです。大変だからです。
 
そして、言語以前の愛で生きるゆとりも余裕もないから、言語で何事も捉えてしまう。だから、ベビーカーはウザいものになります。
 
犬や猫が可愛いというのは、最初から言語で相手にするものでないからかもしれません。赤ん坊やベビーカーの母親には、言語でクレームを言うとができます。
 
実際には、赤ん坊や小さい子供に何を言っても、まだ言語で理解する能力はありません。しかし、相手が人間だとやっぱり言葉で言いたくなるものです。
 
それが動物にはありません。わたしも家では猫たちに日本語で話しかけていますが、心では通じていると思っていても、猫たちから日本語で言葉が返ってくるとは最初から思っていません。
 
ですから、動物相手だと、言語以前の感覚でいられることができます。そして、言語以前の感覚で付き合ったほうが意外とうまくいきます。わたしは猫たちととても仲が良くて、この仲の良さと同等な人間はひとりもいません。
 
人間は言語があるから難しい。しかし、昔はもっと言語以前のもので自然体でやっていたのかもしれません。
 
おそらく、言語以前の愛情で付き合えば、人間関係はもっとうまくいくはずです。
 
でも、それは理想論で、机上空論で意味がありません。
 
どうすればベビーカーが毛嫌いされない社会になるのかは、わたしにはまったくその方法が見いだせないし、きっととてつもない時間がかかるに違いないと想像しつつ、家で猫を可愛がっているのです。
 
 

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