視点を高く「置く」

結月平日コラム_edited-1

ひとは自ずと見たいものしか見ない。でも、見たいものしか見ていないその事実に意外に気づいていない。

世界は広くて、価値観は様々だから、見たくないもの、見る興味がないものまで見ようと思えば、いえ、少なくともその存在があることを知ろうとすれば、視点を高いところに置かなければならない。

視点を「置く」というように「置く」を動詞に使うことからも言葉はよくできていて、確かに視点は「置く」ものだと思う。

例えば、わたしは13年間、銀座にいて、ずっと銀座からの視点が少なからずあったと思う。

銀座を出歩くことはほとんどないので、銀座の街をよく知るという意味でなく、もしこれが池袋だったら違った視点で生きていて、今の自分とはまた違っていたはずという意味で。

自分がどこにいるかによって、世界の見え方は異なってくる。

思うことは、できるだけ視点は遠く、そして高くがいいのだろうということ。

視点を近くに置くと、どうしても自分から離れられなくて、見たいものしか見なくなってしまう。

視点が低いのも同様に。

多分だけど、自分の世界観を構築するのと、視点が近くてエゴが強いのはまるで別物。

自分の世界観をちゃんと作るというのは、基本的に視点が遠くに置かれていて、この世の価値観が多様であることを見据えたうえで、オリジナリティがあるということなんじゃないかな。

わかりやすく言えば、ヘイトというものが、一見するとひとつの世界観に見えようとも、それは視点が近くて、低くて、によるものだと思う。

さて、どうすれば遠い視点、高い視点に置くことができるか?

おそらく、それは暇になることじゃないかな。ゆったりと世の中を、人間を見渡せる暇加減。

忙しいとどうしても視点は近くなるし、低くなる。

会社の人間関係の悩みは、視点を遠く、そして高く見てみれば簡単にその原因が見えて、解決できそうなものなのに、忙しさの中ではそれをすることができない。

そして、近い視点、低い視点が常習化してしまって、もうどうにもならないほど頑固になる。

ああ、これは困ったものだ、と思う。

しかし、エネルギーは近くて低い視点のほうが強い。ヘイトにエネルギーがあるのはその通り。

視点を遠く、高くに置くと、エネルギーが集約されないからエネルギーの密度は下がってしまう。

視点を遠くに置きつつ、エネルギー力が高いというのが理想なのでしょうね。

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