不快を与えないようにするには?

結月平日コラム_edited-1

猫三匹と暮らしているわたし。

寒くなってきて、三匹ともがわたしの布団で寝るようになって、猫と猫の隙間に体を通さないと寝れない。

それでも猫は全然どく気配がなく、デンとしている。

わたしたちもあれくらいデンと構えて、ひとのことなんか気にしないで生きるべきです。

そんな猫たちは、まず年長メス猫のマオミィがわたしの脚と脚の間にいて、元気くんが胸の横、そしてラッキーが首の上で寝そべっている。

しかし、ラッキーがそこからどくと、今度は元気くんがわたしの胸の上で寝る。どうやら猫同士で譲り合いがあるらしい。

昨晩、久しぶりに紙の本を取り出し、それはルドルフ・シュタイナーの講演集『死について』。

シュタイナーはとても難解で、一度読んだだけではよくわからないので、この本もこうして思い出したように取り出しては読んでいる。

マイナーな本なので電子化されていなくて、

「ああ、マジで紙の本は読みにくい」

と思いながら読む。

片手で持つには重いし、ページを開く場所によって本の比重が変わって鬱陶しい。それに読者アンケートみたいな要らないハガキが入っていて、ハガキの紙質は硬いから、それが挟まれたページで、本がバサッと開いたりして、マジでうざい。

電子書籍ならこういうストレス、全然なくて、読むことに集中できるのにね。

ともかく、シュタイナーの『死について』という難解な本を読んでいるところにマオミィがわたしの首の上にごろりと横たわって、右耳をチュパチュパ吸いだした。

これはマオミィにとって大事な儀式らしく、必ず一日一度はやる。だいたい20分くらいは吸っているかな。

マオミィは歯を立てないので痛くはないけど、舌がザラザラなのでちょっと痛くなってくる。でも、マオミィのふわふわの体がわたしの唇あたりに触れて、これは気持ちがいい。

と、マオミィは「死について」はどーでもいいらしく、なるほど人間だって、猫だってどうせ肉体的には死ぬのだから、そんなもん、生きてる間に考えたってしょーがないってことか。猫のほうが仙人のように賢明なのかもしれない。

そんなこだわりのなさが猫たちの無償の愛になっているのだろう。

さて、一方、人間界は凄みのある事件がいつでもあるわけで、

首に千枚通し、母親殺害しようとした疑いで女子高生逮捕

という記事を見た。

ワォ! なんてロックンロールな事件なんだ!

千枚通しって、昭和チックで古典的な感じがする。まあ、アイスピックみたいなものだよね。

どんな事情で、どんな母親だったかはわからないけど、女子高生には母親を殺害したいと思ってしまうようなことがきっと小さなころから蓄積されていたのだと思う。

これが息子と父親だと、神話的テーマにもなるし、その確執と怨みというのも全人類的テーマであり、精神分析のエディプスコンプレックスはそうだし、小説だと何と言ってもドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』だよね。

息子の母に対する愛着から、父という存在が敵対者となって殺意を抱かせるという流れだけど、まあ、現代のような緩やかな時代では、そういう劇的な理由というより、単に親の存在がウザいから殺したくなったというのが自然でしょう。

人間に殺意を抱かせるというのは、かなり嫌がらせをされないとそこまでは思わない。シャレで思っても、本当にアイスピックで刺しちゃうのはかなりのものだよ。

母親が小さなころから叱責が激しくて、八つ当たりがすごいとか、人格否定するとか、そんなところかもしれない。

それが女子高生の年齢になるまで、つまり15年くらいは続いていて、殺したくなった。

家庭というのは他者関係と違い、一つ屋根の下で毎日顔を合わせるから、環境としては劣悪。

わたしは夫婦は週に1度か2度会うくらいがいいと提唱していて、それが仲良しの秘訣だと思ってる。

親子だってそうで、毎日一緒に暮らすのはお互いが鬱陶しくなる。小さな赤ちゃんだったらいいけど、物心がついて子供に人格がきっちりと芽生えたときくらいは子にとって親がいつも一緒はウザい。

わたしは親と離れて、もう随分長い時間が経ち、会うのも年に多くて数回だからまあ、我慢できる。

子供のことから、親とは住みたくなかったので、大学に入ってから離れることになって、あんなにうれしかったことはない。

なので、今でも京都へ行っても長くて3日くらいで済ますのは、やっぱり鬱陶しいからで、母親はまだいいけど、父親はわたし的には人格に問題があると思うし、自分が正しいと思ってるし、何かとすぐにキレるし、キレるから食事がまずくなるし、酒乱だし、世界観が狭いし、まあ、あんなのとは生活できませんよ。

昼間はそれほどでもないんだけど、夜になって酒飲むとダメなんだな、あの男は。酒に飲まれるタイプなのかもしんない。いい加減、自己をコントロールしろよって思うけど、そういうの、できないひとはできないんだよね。

とまあ、わたしも大学で親元を離れていなかったら、親を殺していたかもしれないね。

ああいう殺人は突発的なもので、長い歳月で積み重なってきたものが何かの拍子にカッと激情して、「やってしまう」ものなんだよ。

それでもわたしの場合は、殺すまでは今はないって思うのは、ああいう人間はもうどーしようもねえなっていう達観があるのと、人格的には最悪だと思うけど、反面、わたしに与えてくれたものもたくさんあるわけで、100%悪いわけでもないってとこがあるからかな。

文学にしても、絵画にしても、映画にしても、それらはすべて父親のほうにルーツがあるし、一方、母親は人格はいいけど本は全く読まないし、文化的な関心ゼロ。

と、そういうところで、それぞれがあって、それぞれがないものの関係から、幸いにして100%クソってことにはならずに済んでる。そう考えると、離婚っていうのはしないほうがいいんだろうね、子供がいる場合は。

この世に完璧な人間はいないのだから、そのひとに対して全人格的にいいものを求めるのではなく、このひとはここが悪いけど、ここはいいっていうのを見極めて、いいところを吸収するっていうのがいい。

そういう意味で、わたしは自分の父親はクソだとドストエフスキー的に思うけど、あれでもいいところはあるし、そこから享受されていることもあるから、女子高生のように殺そうとまでは思わない。

同じことが自分自身にも言えるわけで、かく言うわたしだって、かなり人格的に問題あるだろうし、まあクソですよ。

そうなると、あんまし親のこと言えねーなって思いつつ、飯食ってるときにキレるのはやめてほしいね。

宋文洲さんがメルマガで、

「子供の教育においても、人に好感を与える教育よりも、不快を与えない
教育のほうがもっと子供の財産になるでしょう」

ってことを言っていて、ひとは魅力的であるよりも、相手にとって快適であるほうがいい、と言っている。

それはそうだね。飯食う時にキレるっていうのは、不快極まりない。こういうことをするとね、その他90%がたとえ良くても、こういう不快さがあると付き合いたくなくなる。

しかし、人間、不快さを一点ももたないひとはいないわけで、だからそういう不快さを日々、自分からなくす努力をするのが生きる意味なのかもしれない。

そして、その不快さをなくそうとしているひとだと、たとえ不快なことがあっても許せるけれど、その自覚がなく、ずっと不快である人間とは顔も合わせたくない。

おそらく、アイスピックで刺された女子高生の母親は、子に対して不快すぎたんじゃないかな。そうでないと子は親を殺そうとは思わない。

手前味噌なことを言うと、わたしの生後10か月の愛娘であり、結美堂チアリーダーでもあるシャンシャンはわたしをアイスピックでは刺さないと思う。

それはシャンシャンのことを可愛がってるし、シャンシャンには何があっても怒らないと決めているからで、シャンシャンにとって不快を与えないように意識しているから。

そんなシャンシャンは今、わたしの京都の実家にいて、あとひと月くらいは向こうでお世話になる。

2週間くらい経ったら、様子を見に行こうと考えてたら、先日母親から電話が来て、せっかく京都に慣れてきたのにわたしが来て、数日でわたしがまたいなくなると寂しがるから来ないほうがいい、とまあ、そんなことを言う。

う~ん、複雑な気持ちだけどさ、それってわたしが帰った後、また泣いて世話するのが大変という自己中的な意味もあるし、シャンシャンが寂しがるというシャンシャン目線の見方の両方ある。

相手は赤ちゃんだから、結局のところは、ねこの気持ちよりもわかんないわけで、気にしすぎるのもどうかと思う。

と、わたしも抱っこしたいし、様子見に行こうとは思ってるけどね。

でもさ、相手に不快を与えないっていうのも難しいことだよね。

意味不明にキレるとかは、誰にとっても不快でわかりやすいけど、相手が未熟であるがゆえに、良薬は口に苦しが伝わらずにいいことが相手に不快に思われるケースってあるよね。

教育ってそんなところが難しいんだよ。

物理とか数学とか、公式や答えが決まっているものはそれを知ってさえすれば馬鹿でも教師になれる。そういうことじゃなくて、もっと人間的な意味の教育だよね。

それに文化かな。

わかりやすい例では、韓国に行ってお茶碗もってご飯食べたら、向こうでは不快に思われたとかね。そういう文化的差異も難しい。

あとはコスプレみたいな変な着物をレンタルして、京都市内を歩いている観光客とか、あれは本人たちはあれで京都を満喫しているつもりでも、着物について無知すぎて、地元では公害なみに不快に思われていることを知らない。

ひとに不快を与えないことって、自分の無知を知る恥を繰り返しながら、いろいろなことを理解していくってことなのだろう。こんなことをしたら、相手が不快なんだってことを知る勉強というか。

それに神経質になりすぎて、何かとコンプライアンスとか口に出して、おもしろいことができなくなる風潮も困ったものだし。

事象によっては、あるひとには不快、でもあるひとには快感ってあるよね。

突き詰めると大変難しい問題であるけど、ヘンテコな着物もどきとか、ひとに対してキレるとか、まあ普通に考えてそれは不快なんじゃね?っていう程度のことくらいはわかってもらわないとねってとこかな。

でも、その程度のことも自覚しないひとが多いからこそ、これまた大変でね。

だって、職場のストレスとかの話を聞いていたら、わたし的には信じられないような不快な上司とか、そんなのがフツーにいるらしいから。

この世は不快の塊だ。

ちなみにキレる人間っていうのはね、自分が正しいと客観性なく思い込んでいるひとたちばかりだよ。

自分が正しいと言うには、客観性が必要だよね。

じゃあ、また明日ね。

関連記事

おすすめ記事

おすすめ記事

おすすめ記事

ページ上部へ戻る