意固地をなくそう!

結月平日コラム_edited-1

お盆も終わって、これから秋。

わたしは10月に13年間いた銀座から脱銀座するにあたって、これからの仕事のやり方を考えている。

今までとはまったく違ったやり方、違ったことをやろうとしているから、それをまとめるのに頭の中は大忙し。

この13年間のベクトルを真逆にしようとしているので、今まで培ってきたものを否定して、ぶっ潰して、自己否定していかなくちゃならない。そこから新しいことを挑戦していくちょうど合間にいるので、精神的には結構辛いね。

言ってみれば、顔面をガラリと整形手術している最中みたいな気分。整形手術を施しながら、血だらけの顔面を見て、ここはもっと削っちゃおうとか、方針を決めながら進んでいくよう。

手術が終わっても、顔は腫れあがっていて、とてもじゃないけど、ひとに見せられるようなものでないかもしれない。

でもね、変わろうと思ったら、痛いものだよ。13年間の銀座の皮膚を全部、引き剥がすってことは。

最近、トヨタ自動車の記事を読んだんですよ。

それは電気自動車に世界がシフトしている中で、トヨタが電気で出遅れていて、日本の国策として水素燃料もやらなくてはいけないという話。

電気自動車に関する記事のネットコメントを読むと、その大半が電気自動車に否定的で、充電するのに時間がかかるとか、走行距離が短いとか、乗ってもおもしろくないとか、保守的なんですよね。実は今、電気自動車は進化していて、充電も早いし、走行距離も伸びてる。

ああいったところにコメントを書き込むひとはネガティヴだから、電気自動車のいいところも見ないし、単に自分のこだわりとか好みでしかモノを言わない。そもそも電気自動車に乗ったことがないはず。

彼らのためにガソリンエンジンにしがみついても、世界でガソリン車がなくなり、電気になれば自動車メーカーはつぶれてしまう。そうなったとき、彼らは責任を取るわけではない。

さらにおそらくトヨタ自動車の中にもガソリンエンジンでやってきた設計者とか技術者は電気モーターなんてやりたくないだろうから、大きな会社ほど新しい方針に舵を切りにくい。

自分たちが築き上げてきた技術が過去のものとなりつつあり、そしてその技術に執着するとどんな大きな企業でも危なくなる。

本当はガソリンエンジンなんて、今の技術で打ち止めにして、全力で電気自動車開発をしなくちゃいけない。

しかし、それは顔面整形手術よりももっとハードな、性転換手術くらいのもの。

この原理が高度成長しきってしまった成熟ニッポンには至るところに働いている。

新しいことをやるには今までのものを潔く捨てなくてはならない。でも、人間はそれをもったいないと思うし、愛着もあるからなかなかそれができない。

わたしも脱銀座はもっと早くやるべきだったと後悔している。執着がありすぎた、と思う。 執着があったから、新しいアイデアが出てこなかったのだ、と思う。

この損失はとても大きかった。

「意固地」になるといけない。

意固地を電子辞書で調べると、こんな意味になっている。

“態度を硬化させる ・ 頑固になる ・ 意地になる ・頑として聞かなくなる ・ 言う事を聞かなくなる ・ 硬直的になる”

ずっと長く銀座でやってきたものだから、銀座に意固地になっていた。しかし、自分が意固地になっていても、否応なく時代は進んでいる。どんどん変化している。 意固地になることで、自分と時代にズレが生じていた。いえ、それはわかってはいたけれど、意固地さのせいで動きが停滞してしまっていた。

やっぱり意固地さはなくさないとね。

他人と喧嘩したり、仲たがいするときって、得てしてその原因は意固地にある。どちらかが意固地であったり、両方が意固地であったり。

しかし、意固地は自分が正しいと思い込んでいるから、なかなか自分では気づかない。

「あなたは自分が正しいと思い込んでいる」 というセリフがあったとして、確かにそのひとは自分が正しいと思っているかもしれない。しかし、相手がそうだと思い込んでいると断言するのならば、そのセリフを発しているひとも対称的に自分が正しいと思い込んでいる。

電気自動車の時代にガソリンエンジンに意固地になる社員がいたら会社はつぶれる。

意固地になると、ひとの話を聞かなくなって、孤立する。

そして、意固地がプライドになると、始末が悪い。

多分、意固地というのは、ひとから相手にされないということなのだろう。

老人になると、ひとから相手にされなくなる。それは年老いて自分が変われなくなり、その意固地がまるでブラックホールのようになってしまうから。

そうなんだ。意固地というのは、会話が成り立たないことなんだ。

「こうすればいいんじゃない?」 というひとからの何気ない言葉すらも聞こうとしないから、会話にならない。

「やわらかく、しなやかに、そして強く」 そういうのがいいんだと最近思う。

そう言えばさ、大御所の小説家が、 「ワープロは文章が荒れる。小説は原稿用紙に手書きで書きなさい」 なんて言っているのを見たことがある。 まあ、手書きには手書きなりのメリットはあるけれど、手書きでなければならないと考えるのは、意固地だよね。

スマホのフリック入力でも小説は書けるし。

あとは先日、プールの広告で「入れ墨のひとはお断り」っていうのを見た。

これも意固地だよね。 今日日、入れ墨なんてファッション感覚で入れるひともいるし、昔みたいに入れ墨=ヤクザ者なんてこともない。

一目見てイカれたDQNなひととかが入れ墨を入れてることがあるけど、それは入れ墨よりも一目見てわかるDQNだから、入れ墨とは関係がない。 入れ墨をしていて控えめなひともいるし、そのひとなりに考えて入れ墨をしているんだったら、それでいいわけで、プールお断りって古いよね、考えが。ま、今どき、入れ墨でビビるようなウブなひとなんてそんなにはいないと思うけど。

これもゼロリスクっていうことだろうけど、そもそも人間が潔癖でない生き物なのだから、人間社会は潔癖ではいられない。

意固地って、世の中のあちこちにあるよね。

だいたいね、ひとが悩んだりするのって、自分が意固地だからだよ。自分で自分の首を絞めるのが意固地だから。

意固地という名の縄を外してみようよ。

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