ちょっとコラム「サンタの思い出」

結月平日コラム_edited-1
ちょっとコラム「サンタの思い出」
 
今の時代を表現するキーワードはたくさんあるだろうけれど、わたしは「小利口」をそのひとつにあげたい。
 
みんな、小利口だと思う。
 
利口ではなく、小利口。
 
小利口というのは少しばかり曲者で、小利口なくらいなら馬鹿なほうがいい、とわたしは思う。
 
今はみんな小利口だから、思い切ったことができなくなってしまっている。
 
夢を持とうにも「どうせ駄目だろうし」と、少しばかり計算ができてしまうものだから、最初からあきらめてしまう。
 
そして小利口なものだから、「そんなこともわかんねぇのかよ」と他人の夢も潰してしまう。
 
つまり、小利口な人間は、行動をしないんだな。
 
馬鹿は行動する。とりあえずやっちゃうから。
 
ところが、ものごとはとりあえずやっちゃったほうが結果が出ることが多い。
 
やってみないとわからないことはあるし、予測通りに進むことのほうが実は少ないのだから、小利口になって勝手に予測しちゃうって愚かなのよね。
 
でも、小利口だと自分は少しばかり賢いと思うから、行動しなかったことで災難がなかったと思い込む。
 
あとは、実体験による知識ではなく、なんだかウィキペディアっぽい表面の、薄っぺらな知識ばかりがあふれかえっていて、「知ったつもり」になっているのが小利口。
 
知ったつもりだけでリアリティがないのに新しい取り組みに対しても「そりゃ、駄目だよ」と小利口な判断をしてしまうから、イノベーションとか何年も前から言われていても、イノベーションなんか起りはしない。
 
イノベーションは馬鹿になることだと思うんだけどね。そんな馬鹿なこと、よく考えて、よくホントにやっちゃったよね、っていうのがイノベーション。
 
小利口だと、新しいことをする際に、事前に下調べしたり、勉強したりしちゃう。
 
でも、そんな予習をしてしまうから、新しいことをやろうとしているのに、たちまち前例主義になってしまう。
 
新しいことをするなら、予習なんか、下調べなんかしちゃいけないよ。新しいことなんだから、自分が知らないことなんだから、ゼロから始めるんだから。前例なんかいらないんだよ。
 
なのに、世間はみんな小利口だから、馬鹿になるエネルギーが乏しくて、やらないうちからできないと決めてかかる。
 
さて、そんな小利口のことを考えたワケは、クリスマスイヴだったからで、わたしは小学生の低学年の頃まではサンタが本当にいるものだと思っていました。
 
学校でクラスメートからサンタは親だという話を聞いて、それを母に訊いてみたら、「実はそうなのよ」と告白され、わたしは箪笥の隅っこで少しだけ泣いてしまい、母から「あんた、泣いたでしょう?」と言われました。
 
わたしがサンタからもらったプレゼントで今でも思い出深いのは、天体望遠鏡をもらったときのこと。
 
そのころ、わたしは小学校の図書館で宇宙の図鑑を何度も読んで、星雲の記号など憶えるつもりもなく憶えていて、宇宙へ憧れ、将来は天文学者になると言っていました。
 
小学生にしては図鑑を丸暗記するほど宇宙のことを知っていたのに、サンタのことを信じていました。
 
そして、母が今年はサンタさんに何をお願いするかと訊くものだから、わたしは天体望遠鏡がほしいと言いました。
 
今から何十年か前の今日の夜、わたしは目が覚めて、その枕元に長い段ボールが置かれているのを見つけ、その形状が天体望遠鏡だったのがすぐにわかると、あまりにうれしくて隣に寝ている母を揺さぶって起こしました。
 
あのときは本当にうれしかった。それに匹敵するのはきっと初めて楽器を買ってもらったときくらいでしょうか。
 
しかし、それよりもうれしかったことは一度もありません。つまり、わたしが大人になるにつれ、小利口になってしまったからでしょう。
 
今の小学生はスマホや通信機器も発展しているので、とても小利口なところがあります。情報通です。だから、サンタを信じる年齢はとても低いのではないでしょうか。
 
小学生がどんどん小利口になっているのに対し、わたしは今、自分の中にある小利口さをどんどん廃棄処分にしていっています。小利口であることがつまらないし、小利口ではおもしろいことができないことに気づいたからです。
 
早い話が、小利口であって、成功したためしがありません。
 
小利口さが自分の妨げになっている。
 
できるだけ馬鹿になろう。
 
やりたいことがあったら、細かいことを考えずにやってしまおう。
 
そういうふうにしていると、取越し苦労をすることがすっかりなくなりました。小利口だと、取越し苦労ばかりで前に進まないのです。
 
サンタがいると思っていたときのほうが、自分にはエネルギーがありました。無我夢中で宇宙のことを知ろうとしていました。宇宙というとてつもないものが等身大に感じられていました。
 
ところが小利口になった途端、宇宙は途方もないものになってしまい、どうせ死ぬまでには行けるわけもない、解明できるものでない自分にはとうてい及ばないちっぽけな現実になってしまいました。
 
でも、小利口さを廃棄処分にしていくと、再び、どんどん等身大で生きていけるようになってきたのです。
 
サンタがいたっていいじゃないか、と思えるようになりました。
 
この世にサンタがいなければ、どうしてあのときわたしの枕元に天体望遠鏡が置いてあったのでしょうか?
 
それは物理的には親が買って置いたものに違いないけれど、親がが子供にプレゼントをするその心に働きかける”何か”がサンタなのでしょう。
 
ですから、サンタは存在するのです。そうでなければ天体望遠鏡は置いてなかったはずです。
 
目には見えないものかもしれない。でも、確かに存在はします。
 
それは小利口だと感じることができないものなのです。
 
 
 

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