無駄のない美しさ

結月平日コラム_edited-1

将棋というのは、いかに最短に、手数少なく、悪手をなくして、無駄なく詰ませるか、というところにおそらく美しさがあるのでしょう。

下手な将棋だと、最短の手があるのに気づかず、無駄な手を繰り返し、遠回り、遠回りしてやっと詰ませたりする。

きっと、こういうのは将棋的には美しくない。

今、ネットで活躍しているひとの考え方って、悉くプログラマーの思考なのだと思う。

ホリエモンとかひろゆきはその代表格で、昔は彼らが胡散臭く見られたのは、まだネットが社会に浸透していなくて、彼らのプログラマー的思考に社会がついて来れなかったからでしょう。

しかし、今は完全ネット社会と言っていい状態になって、ほとんどのひとがスマホを端末にして、随時、ネットから情報を得ている。だから、プログラマー思考のほうが支持されるようになってきた。

とは言っても、まだまだ頭が古いひとはもちろん多いから、堀江さんの発言が炎上してしまったりするわけだけど、でも確実にプログラマー思考は広がっている。

一口に言って、プログラマ‐思考とは、将棋の最短で詰ませる美しい手順なのだと思う。

プログラムが回りくどいことをやっていては、重すぎるプログラムになってサクサク動かず、ストレスになるし、要するに使えない。

で、プロクラマー思考で邪魔なものというのは、「無駄」なんですよね。いかに無駄なことをなくして、要領よく、最短で物事ができるようにするかということ。

そんなことを考えていたら、ドイツの「ライカ」っていうカメラのことを思った。

ライカは技術的には日本のキヤノンやニコンにはまるで及ばないのに、ファンが多く、性能のいい日本製カメラよりも値段が高くても売れる。

ライカの良さは、機能的に無駄がまったくなく、デザイン的に無駄がまったくなく、必要なものだけが、無駄なくきっちりと収められている美しさにあるんじゃないでしょうか。

日本製のパソコンの評判が悪いのは、要らないソフトがゴチャゴチャと入っていたりするところで、だったらレノボとかDellで、必要なものがあるだけのほうが使いやすいってなる。

アップルの人気も無駄のないデザインと機能性にあると思う。

そこで。

人間にとって無駄とは、余計な情念なのでしょう。

どうでもいいこだわり。なくてもいいのにあったほうがいいと信じ込んでいる心。つまらない義理、他人からどう見られているかを気にする恐怖、などなど。

こうした情念が行動の邪魔をするわけで、こうした余計な情念のせいで最短の行程を歩むことができず、ズルズルと悩み、言い訳をし、ひとを恨んだり、引きこもったり、要は何事もうまくいかない。

「昭和だよね」なんていう言い方は、凡そ、そうした無駄な情念にこだわったり、無駄な情念での行動だったりすることが多いと思う。

プログラマー思考というのは、こうした無駄な情念をなくすものであり、ホリエモンなどネットで活躍するひとたちは、その浄化の役割を今、果たしていると思う。

今、その浄化と無駄な情念から抜け出せない勢力とが激しく激突し合っている時代。

しかし、情念のすべてが無駄というわけではない。

あったほうがいい情念ももちろんあって、つまりは無駄な情念をなくすべきということ。

人間はそれをプログラムのように処理できないから面倒であるけれど、その処理を促す、もしくは要求されているから自己啓発本が売れているのだと思う。

みんな、実のところ、無駄な情念に悩んでいる。

無駄な情念の処理をどうすればいいか、どうやってそれを捨てればいいか、そこに悩んでいる。

答えは簡単で、「捨てればいいじゃん」なのだけれど、そう言うと、「それができたら苦労しないんです」と、また言い訳をする。

そうは言うけど、できない。

これは大変文学的であって、文学はその葛藤を描くものです。

今、小説は売れない。それは当たり前で、みんなその葛藤を嫌というほど自分に抱えているからで、わざわざ小説を読んでその辛さを追体験なんてしたくはない。

それよりも何でもいいから、その辛さから逃れられる「方法」を知りたい。だから、方法っぽいものが書かれた自己啓発本を買う。

ところがそれを読んでもやっぱりプログラム的には自分を処理できず、言い訳をして、変わることができないからまた新しい自己啓発本を買う。

そういうことの繰り返しなんですよ。

でも、プログラマー思考による無駄な情念の浄化は少しずつ進んでいると思います。

わたしもそれを推し進めていて、それは今までの文学的な生き方の否定でもあるけれど、文学的なものはすべて不必要とは言わないにせよ、文学的なものは解決をもたらすものではない。

まずは解決しないと先に進めない。解決してから、解決した後の余裕の上に文学的なことをやったほうがいいんじゃないかと今は思っている。

それくらい悩みやストレスは切羽詰っているひとが多いし、将来の不安など深刻な時代なのだから、無駄な情念を断ち切ることをサロンをはじめ、いろんなとろこでやりながら、しかしそれだけだと殺伐としてくるから着物や音楽を楽しめるようにしたいと思っています。

無駄を省いた合理性の中で、不合理である文化を楽しめる余裕を作るっていう感じでしょうか。

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