わたしの死生観
生後7か月のシャンシャンを見ていて、その成長ぶりやはしゃぎっぷり、そして笑顔を見ていると、シャンシャンといられるのは、せいぜい数十年、平均寿命から逆算して、半世紀もないんだな、と、ふと思う。
わたしの寿命が尽きるとき、シャンシャンはどんな大人になっているかはわからないけれど、死ぬ立場で言えば、おそらくシャンシャンへは、
「もうそろそろ終わりだけれど、楽しかったよ」
とか、そんな気持ちだろうと思う。
つまり、言いたいことは、残される立場から見れば、死は悲しいものかもしれないけれど、死んでいく当事者からすれば、死はそんなに悲しんでもらうものでもなく、せいぜい、
「こんなものかな…」
という程度で、ネガティヴさはないだろうということ。
三匹の猫と暮らしているわたし。猫のことはとても可愛がっている。でも、そんな猫の顔を見て、いつかは死んでしまうんだなと思う。
猫たちがいなくなったら、とても寂しいし、そのときは自分がどういう精神状態になるかはわからない。でも、ひどく寂しく、落ち込むと思う。
猫にどれだけの精神があるのかわからないけれど、おそらくは死は猫にとっても自然なもので、当事者は悲しいとか、そういう感情はないだろう。
どんなに死に際で苦しんでも、死は自然であり、どんな若死にでも死は死であり、残忍な殺され方などを除いては、残される相手に対して自然な感情、透き通った感情があるだけではないかな。
だから、誰かが死んでしまって悲しいというのは、生きている側の都合であって、死ぬ側としてはとりわけ悲しいものではないだろう。
もっと長生きしたかったという思いはある場合も、それは本人の思いであって、それも死でちゃんと帳消しにされる。
そう考えれば、残されるほうの悲しみも少なくなるのではないか。
わたしの寿命が尽きるとき、そこにシャンシャンがいてくれるかわからないけれど、もし居合わせたなら、そして悲しんでくれるのであれば、
「別に悲しむことでもないよ」
と、声をかけるだろう。
そして、猫たちだって、その時が来たら、
「こういうものニャ」
と、わたしを見つめるだろう。
多分、死は「その程度」というくらいなものかも、と思う。
そんなに大げさなものでもないんじゃないか。
生命力に溢れる生後7か月のシャンシャンを見て、そんなことを思った。
年齢的には自分がひとの死を見る立場だったけれど、わたしよりずっと若いシャンシャンを見て、
「そうだ、わたしもいずれは死ぬんだ」
と、今さらながらに気づいた。