『マスカレード・ホテル』でキムタク批判する前に、映画は原作を潰して創造するもの

結月平日コラム_edited-1

こんな記事を見ました。

キムタク、「検察側の罪人」の次の主演映画の配役に原作ファンがブチギレ!

東野圭吾の小説『マスカレード・ホテル』の映画化で、その主人公にキムタクが抜擢され、ファンからはイメージが違うと非難されているという話。

こういう話はよくあって、漫画の『タッチ』が実写化されたときは、浅倉南にされた女優は気の毒でした。

しかし、漫画は絵なので登場人物が具体的に描かれるので非難されるのは仕方がないです。

小説の場合は、読者の脳内イメージだから、そこそこ融通が利くものです。

小説を原作にして映画にする場合、一応映画人だったことのあるわたしの見解を言えば、映画化の際には原作のワールドをぶち壊してしまってOKです。というか、そうしなきゃいけない。

原作からはエッセンスだけいただければよく、忠実に作る必要などないです。

と、こんなことを言うと、これまた原作のファンからは怒られそうですが、原作に忠実に描くなら映画化の意味なんてないんですよね。原作に最も忠実なのは、その原作であるのだから、その原作を読んでおけばいい。

しかし、映画という小説とは異なったメディアで、脚本や監督、美術、俳優などなど多くのひとが関わりひとつの世界を作っていくものは、その映画ならではのものがなければつまんないです。

なので、原作に忠実に作った映画に傑作はないし、原作とはかけ離れてしまったものに傑作は多いです。

黒澤明なんて、原作を原作以上に傑作にしてしまう達人だったひとで、その時代劇の原作はシェイクスピアが多いし、映画としては失敗作だったけれど『白痴』はドストエフスキイ―の同名小説を舞台を北海道にしたわけです。

映画がおもしろくなるなるのは、原作に忠実でない理由ではなく、そのキャスティングが芸能事務所のごり押しで、実力のない俳優が配置されたり、監督が望まないキャスティングをされたときです。

キムタクはSMAPとしてアイドルでやってきたため、どうしてチャラいイメージで捉われるので気の毒ですが、役者としてはそんなに下手じゃないし、真面目だし、言うほど悪くないんです。

ただ、今の時代、何をやってもキムタク、というキャラが受けないんです。

何をやってもキムタクというのは、主役を張れる役者の大きな条件で、何をやってもその俳優でしかないのは主役級です。

わかりやすいのが高倉健で、健さんは何をやっても健さんでしかなく、どの映画も全部同じ。ところがファンは健さんがいつも同じ健さんだからそこにほれ込んで、

「いよっ! 待ってました!」

となって盛り上がる。

他にはフランスの巨星、ジャン・ギャバンもそうで、どの映画もジャン・ギャバンでしかない。ところがギャバンが出ると、もうギャバンの映画で成り立っちゃって、

「ううっ! たまんない!」

となる。

女優では、オードリー・ヘプバーンもそうで、彼女は演技は超下手くそだけど、キャラが可愛らしくて、どの映画もヘプバーンのものとして成立します。

そうした往年のスターと比べて、キムタクが不足しているものは、映画を牛耳って、そのスクリーンを制覇するほどの存在感がない、というところです。存在感はあるんだけど、映画全体を引っ張る力はない、という感じでしょうか。

おそらくその中途半端さが、キムタク主演映画はいつも絶賛はされない原因であって、かと言ってキャラはあるから脇役にも収まれないというところ。

さて、映画は原作を壊していい、というのがわたしの考えで、壊して原作以上の価値を生み出すということです。ただ壊すだけだと駄作以下で、それは原作者としては困るでしょう。

映画は脚本家や監督らによるひとつの作品なので、いくら原作があっても新しい価値を作るのが仕事です。

そのためには原作を破壊するくらいの気持ちがないといいものは絶対にできません。

破壊からの創造に失敗すると、原作者や原作のファンからブーイングが来てしまうので、よほどの監督でないと「破壊からの創造」をしようとはしません。

だから、総じて原作通りな普通っぽい映画ばかりが大半であり、配給会社も下手に原作イメージを壊して原作ファンから怒られたくないから無難路線でいこうとする。

こうした状況が日本映画をつまらなくしていて、かつてのような強烈な作品が出てこないようにしています。

黒澤明なんて、シェイクスピアに対してのリスペクトはすごいけど、同時にシェイクスピアより自分がおもしろいものを作れると自然に思っていたはずです。そうでなければ、世界文学を映画にしようなんて、怖くてできませんから。

破壊してからの創造は徹底してやらねば傑作は生まれないので、おそらく『マスカレード・ホテル』という映画は単にキムタクのキャラがイメージに合わないというレベルの批判なので、映画のほうはおそらく普通レベルなんじゃないかとわたしは思います。

マグロという食材があったとして、「やっぱ刺し身にして食べよう!」というのは凡人。

「刺し身なんてありふれているからつまんねー。マグロで誰も見たことがない料理を作ってみたい!」

と思うのが芸術家です。

世の名はマグロを刺し身でしか食べないひとが多すぎるんです。あとはせいぜいシーチキンとか。

マグロを刺し身にして食べているようでは、おもしろいことなんでできやしませんよ。

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