ちょっとコラム「文化は残そうと思ったら終わり」

結月平日コラム_edited-1
ちょっとコラム「文化は残そうと思ったら終わり」
 
長い人類の歴史の中で、たくさんの文化が生まれて、たくさんの文化が消えてなくなっていきました。その新陳代謝は今も変わらず進行していて、日本でも古い文化がなくなり、同時に新しい文化が生まれています。
 
着物もそうですし、日本の伝統文化と言われるものはその存続が危うい状態で、それほど遠くない将来にほとんどなくなってしまうのは確かなことです。
 
作る職人が高齢化していなくなるだとか、後継者がいないだとか、お客さんが集まらないとかそういうことになって、いずれはなくなります。
 
そういう危機感から、そうした昔からの文化を残そうという試みがされますが、得てしてうまくいきません。
 
そうした試み自体が長く続かないし、試み自体が廃れていきます。
 
実は文化というのは「残そう」と思った時点で、終焉なんです。いくらそれがすばらしいものだからと言っても、残そうと思わなければならないのはそれだけ社会では求められていないからに他ならず、要するに必要とされていないからなくなりそうになるわけなのです。
 
文化というのは、生み出そうとして発生するのではなく、人々が生活の中で自然に生み出され、そして洗練されていくものなので、基本的には「必要とされる」から文化が生まれるのです。
 
スマホのアプリだって、文化と言えば文化で、必要とされるアプリは人気で売れるし、改良もされます。必要とされなくて、ダウンロードするひとがあまりにも少なければそれはなくなっていきます。
 
どんな文化でも根本的にはそういうことなんですね。
 
ですから、残そうと思うのは、その必要とされていない文化が好きだから執着しているだけです。でも、一般社会ではもう相手にされないものです。今の社会と接点が乏しいものはシカトされて当然です。
 
いくらそれが日本にとって、社会にとって必要だと言ったところで、それは独りよがりな意見にしか他のひとには聞こえません。
 
歌舞伎にしても、能楽にしても、文楽にしても、それを見て、今のひとが肌感覚でおもしろい!と思わなければ、お客さんは入らないし、存続することはできなくなって当然です。
 
それを教養として持つべきと言っても、それは押しつけがましい話です。大昔のひとが歌舞伎などそういったものをリアルに楽しんでいたからこそ発展したわけで、その内容が今の時代に通じなければ衰退して、お客さんが高齢化しておしまいなのです。
 
ですから、文化は残そうとするものでなく、求められてできあがるものだから、残そうと考えた時点でその文化は終わりということです。
 
しかし、それでいいのではないでしょうか?
 
着物は着て、じゃあ、髪も日本髪に結うべきだなんて言ってもさすがにそこまでは馬鹿馬鹿しくてできません。すでに日本髪は消えた文化です。
 
日本髪は一例で、すでに廃れても全くわたしたちが困らないのが今なので、そうやって今までも古いものはなくなり、新しいものが出てきますから、伝統なんてものは無理に残そうとしたって無駄な話なのです。
 
 

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